世界に羽ばたくオリベイズム

来秋からニューヨークで織部展   :  久野 治
− 読売新聞2002年6月21日より −

2003年10月21日から2004年1月11日まで
ニューヨーク市メトロポリタン美術館で
古田織部展が開催される

 400年も前に世界に先駆け、左右非対称、抽象模様、大胆な色彩など画期的な美を打ち出した織部=オリベイズムがいよいよ世界に船出する時が来たのだ。

 そこで、それに先立ち、出身地・岐阜でも、織部の意義をより深く理解するきっかけとして、茶匠・織部の原点とも言える「泪(なみだ)の茶杓(ちゃしゃく)」を生誕地・岐阜県本巣町に”里帰り”させ、「織部の展示館」で広く公開できないかと思っている。

 戦国大名の古田織部(1544〜1615)は千利休「(1522〜91)の高弟で徳川二大将軍・秀忠の茶道指南役も努めた。利休が町人向きの茶を志向したのに対して武士向きの茶を進める立場に立って、茶道具のやきもの(陶器)の上でも独特の「織部焼き」という名を残した。
 「泪の茶杓」は、今から451年も昔の1591年(天正19年)、時の天下人である豊臣秀吉の勘気に触れ、京都洛中の聚楽第を追われた千利休が、舟で堺へ下るとき、淀の渡し場まで見送りに来てくれた古田織部へ、礼状に添えて利休形見の品とした茶杓である。春まだ浅き2月13日の事であった。そのあと利休は京都に呼び戻され、28日に切腹させられた。
 織部は師である千利休の霊を弔うために、利休から贈られた茶杓を入れる共筒に黒漆をかけて、中央に四角い窓を開け、中の茶杓が見えるようにして、毎日これを床の間において拝んだと伝えられている。
 ところが古田織部も豊臣・徳川両家の共存を願い平和工作に走ったとされ、大坂城の落城、豊臣家滅亡後の1615年(慶長20年)6月11日に切腹させられる。財産は徳川家に没収され、家康の死に伴い御三家に分与、「泪の茶杓」は現在、徳川美術館(名古屋市東区)に収蔵されている。
 「泪の茶杓」は毎年、千利休の命日、2月28日を前後する短期間、公開され、茶道ファンをはじめ多くの人に感動を与えている。

 本巣町では、町役場の北約3`の国道157号線沿いで「織部の里づくり」(約1.5ヘクタール)が進められており、昨年4月には岐阜県が道の駅「織部の里もとす」を、本巣町が、「織部展示館」(422平方メートル)と町民ギャラリーを完成させ、今年4月には樽見鉄道が敷地南西角に「織部駅」を開設した。
 
 斬新な改革を実現させた織部のオリベイズムは、停滞感を打破する大きな契機になると確信している。



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